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徳川家康の次男で越前藩松平家の藩祖、結城秀康の書状3点。
「先日は来訪してくれましたが、私が病気だったので早々にお帰りいただくことになり残念です。帷子・羽織をお贈りします。病気のため花押ではなく印判を使いました」と伝えており、3点とも病気見舞いへの礼状。
「秀康」「中納言」と署名し、黒印も現存する結城秀康の黒印状と同形である。
5月17日、6月26日、6月28日付けで「中納言」と署名しているが、秀康が中納言に在職していたのは慶長10年(1605)7月~翌11年正月で、この書状が出された5~6月は中納言ではなかった。
しかし、慶長12年(1607)2月21日付け島津家久宛て書状で「越中納言秀康」と署名しており、辞職後も中納言と名乗っていた事例がある(『島津家文書』2105号)。
秀康は慶長12年閏4月8日に死去するため、この書状3点は慶長11年5月~6月に比定される。
端裏書の宛所は「市川勝次郎」「市川勝二郎」「市川小次郎」とある。
法量:3点とも約36×52cm
※翻刻は参考程度
【1】
急の腹痛故、以印判
申候、以上、
先日者入来候処ニ、手前
所労故、早々御帰、残多候、
随而帷子弐・羽織壱進之候、
書中之験迄候、恐々謹言、
五月十七日秀康(黒印)
【2】
尚々煩故、印判を以て申候、以上、
先日者御出、為悦之至候、
煩故、早々御帰、残多候、不任
心中付而、何へも右之通候、随而此
式ニ候へ共、帷子弐・羽織壱進之候、
誠書中之験迄候、尚使者可申候、
恐々謹言、
六月廿六日秀康(黒印)
【3】
所労故、以印判令申候、以上、
先日者入来候処、手前
煩故、早々御帰候、残多候、随而
帷子弐・羽織一進之候、
誠書中之験迄候、恐々謹言、
六月廿八日秀康(黒印)
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